163 ★ 戯 : 阿吽の呼吸

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更新日 2008-02-11 | 作成日 2007-10-05

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阿吽の呼吸


 呼吸するって云うのは、息を吸って吐く事だと云うのは、誰でも知っている。ところが、ただ吸い込んだり、吐き出したりするだけでは、意味を成さない世界があるんです。音楽を演奏するには、一般的には楽譜を見て演奏します。普通の人はそれを当たり前の事だと考えています。確かに名人達人と呼ばれている人達の演奏会でも、楽譜を並べて演奏しています。しかし、それを眺めながら演奏していると思っているのは、素人考えなんです。本物のプロ達は、楽譜を眺めている訳ではありません。事実、演奏中に楽譜を取っぱらッても、止まる事はありません。もし、止まったとしたら、余程練習不足か、所謂初見演奏と云うやつで、初めて見た楽譜をいきなり演奏している場合です。大抵のプロならば、3回ほど演奏した曲なら、楽譜に何が書かれていたかは、覚えてしまっています。無ければ無いで、単に演奏するだけならば、困らないのですが、何故目の前に楽譜をおいて演奏するのかは、素人が考えている事とは全く次元の異なるところに理由があるんです。誰にでもワカル表現をすれば、譜面台や楽譜も音楽表現の物理的な道具として利用しているのです。その本当の意味は、そのレベルの人にしか理解できない事です。大多数の人が当たり前と思っている事でも、より次元の高い表現の世界では、意味が違っている事が私達の周囲には沢山あります。しかし、その事をどんなに頑張って、名文章で表現しても、また文章を理解する力を養っても、その真意を理解する事はとても難しい事なのです。

 163は芸術を完全に理解し、表現する事ができるまでに成長する時に、多くの人が体験する限界点の事を“壁”と表現しています。素晴らしい音楽を体験(演奏会やオーディオ装置で鑑賞)し強烈な感動を覚え、自分も演奏する立場になりたいと思い始めたとします。初めて専門家に習って、練習を始めたばかりの時は、右も左もわかりませんが、未知の世界を体験する興味と楽しさが優先している間は、如何なる厳しさや難しさに直面しても、それを乗り越えるために必死に努力します。宝探しの旅に出かけるのと似ています。最初の内は興味半分面白半分ですから、次元は違ってもプロがやっている事を真似しているだけで、満足しています。山登りが面白いと感じた人は、それがたとえ低い山でも、登る事に感動を覚えます。何故山に登るのかと問われて、『そこに山があるからだ』と答えた有名な登山家の話がありますが、それと似たようなものです。同じ高さの山でも、別の山に登ると、全く異なる感動を覚えます。何故か?山を登る時に、一歩一歩足元を確認しながら登ります。その一歩毎に、足を置く場所だけではなく、その周囲も眺めます。文字で表現すると、只それだけの事ですが、その時に足を置く場所からどれだけ離れた場所までを確認できるかが、人によって違いがあるのです。曼珠沙華の花の百花繚乱と.jpg同じ山を登っても、足を置く場所しか見えていない人と、より広範囲を見渡しながら登っている人では、感動の内容は異なるのですが、でも、どちらも感動しています。感動している時の表情は、どちらも同じように見えます。自分以外の人が、何にどの位感動しているのかは、本当の意味では理解できないのですから、それはそれで良いのです。何事も初心者の内は、楽しければそれで良いのですが、もっと高い次元の感動をしたいと云う欲求にかられた時から、話は違ってきます。只登っただけでは気が済まなくなるんです。

 二人三脚で山登りをする事を考えて下さい。幾らなんでも最初から二人三脚で山登りをする事は危険です。まず、平地で練習します。眺めているだけなら簡単そうに見えるのですが、やってみると意外に難しいものですね。体験した人は多いと思いますが、運動会等でのたうち回っている自分も、それを眺めている人も、イベントとしてはとても楽しむ事ができます。しかし、コレを極めてやろうと思った時から、その行為は苦しみに転じます。しかし、何故辛く苦しい事に挑むのでしょうか?それは、上手くやった時には、眺めた人がきっと称讃してくれるであろうと云う期待に胸踊るからです。二人でさえ難しいのに、それをマスターすると、今度は三人でやってみたくなります。三人四脚ですね。ドンドン難しくなります。人数が増えるに連れて、ドンドン難しくなるのですが、やる前から難しい事はわかっていてチャレンジするんですから、結果はどうなっても楽しいものです。やっている本人達は、何回やっても楽しいのですが、それを毎日眺めているだけの人生ってどんなものでしょうか?きっとつまらないものだと思いますが、如何でしょうか?

 昔から多くの人が、宝探しに躍起になってきました。金銀宝石の美しさに魅了され、今手元にあるものよりも、より美しくより大きなものを手にしたい欲望にかられます。それを手にするために人はどうしたか?それは、歴史に刻まれているので、おわかりでしょうが、方法は幾通りもあります。ある人は金銀財宝を探す旅に出かけます。天然自然の中に眠っている原石を探しに行くのです。何のために?この場合、美しいからとか眺めていたいと云う単純な理由では無さそうですね。近所の道ばたに落ちていると云うなら、話は別ですが、深く険しい前人未到の大自然に挑むのは孤独で危険な作業です。目的は、金銀財宝を見つけて、自分のモノにして、これを人に売って大儲けしようと云う魂胆です。元々大金持ちの人がチャレンジする場合は、単なるアドベンチャーかも知れませんが、一般的には一獲千金を狙う冒険の旅です。何億円もするダイヤモンドでも、山で拾ってくれば只。つまり、無料。そこに辿り着いて、拾って戻ってくるまでの、飯代や精神的肉体的な努力と苦痛に耐える必要はありますが、それだけです。そのために必要とする艱難辛苦の数々を理解しているお金持ちならば、自分でやろうとはしません。誰かが見つけてきたものを買い取れば済む事ですから。

 買い取ってからも様々です。自分の宝物として、永久にしまっておく人と、買い取った値段よりも高く転売しようとする人に分かれます。より高く転売する方法を考えます。原石のままで売るよりも、カッティングや飾り付けを施してより高く売ろうと努力します。ココまでは正攻法ですね。悪質なのは、誰かさんが持っている金銀財宝を奪い取る輩です。対国家の場合は、戦争と云う方法で、相手を撃滅し、相手が所有していた財産を没収すると云うやり方です。同じ国家同士ならば、単純に略奪です。泥棒です。

 ところが、今目の前でそれを行うと犯罪者として扱われますが、歴史上の出来事になると、それも面白可笑しく語られており、またそれを容認する風潮にあります。勿論、それに対してとやかく言っても始まらないのですから。昔の出来事であり、当事者は今存在しないし、もしかしたら、自分のご先祖様かも知れないので、あまり悪くも言えないのです。自分から何代か前に遡り、家系図を作ってみればわかりますが、代を遡る毎に膨大な人数に膨れ上がります。そんな中に一人や二人は盗賊に加担した人もいるかも知れません。事実はわからないのですが、かも知れないと云うだけで人は口を閉ざしてしまいます。中には、童話や伝説の中にも盗賊が大活躍するお話が沢山あります。結果論からすると、盗賊が必ずしも悪人とは言えない場合があります。時の為政者が悪人で、私利私欲を肥やすために、庶民を奴隷のように扱って、宝探しをさせた実例も山のようにあります。このような場合に、悪い為政者を撃退し、その溜め込んだ財産を庶民達に平等に分配した盗賊がいたとしたら、どう評価しますか?やっぱり悪人ですか?それとも善人ですか?詳しい状況がわからないので、なんとも言えませんね。

 金銀財宝が高い値段で取り引きされる事に目をつけた悪いやつがいます。偽物を作って高く売りつけるのです。本当に悪いですね。ところが、世の中は不思議なもので、個人レベルでは理解できないような、大規模な偽物作りは容認してしまいます。それどころか美化されてしまうのです。金銀財宝は貴金属や宝石に限った事ではありません。極端に大規模に行うと、ドンな悪い事も合法的に行う事ができます。現実に商取引として行われている行為とその対象になっている現物の価格差が問題です。ココでは詳しく書きませんが、一般人の知らないところで、合法的と称する巨悪は蔓延っています。ひょっとすると、いや、しなくても自分も知らず知らずの内にその手先になっている可能性があります。そんなつもりは全くなくても、なってしまっている可能性はあります。

 人間は様々な趣味や生き甲斐を持っています。山登りも宝探しも二人三脚も、チョットやソットの努力では到達できないレベルに達すると、いずれそれらは芸術となっていきます。一人でやるのは簡単な事でも、複数の人で全員が満足する状態にしようとすると、そのタイミングをとるだけでもとても細やかで微妙なコントロールを必要とします。あらゆる面で誰がどのように頑張っても到達できないレベルに達すると、芸術として評価されるようになるのですが、そこに到達できなくて、途中で止めてしまう人が多い事も事実です。その止めるきっかけになる出来事は、多くの人に共通点を見い出す事ができます。具体的に書くと長くなるため、また、多くの人が数々のそれらしい体験をしており理解されるので書きませんが、163はその限界点の事を“壁”と呼んでいるんです。

 芸術的レベルに到達するまでの“壁”は三通りあります。技能の壁・技術の壁・芸術の壁詳しい事はココでは書きません。簡単に云うと100点満点のテストを受けた経験をお持ちの方は多い筈。というか全ての人の筈。あなたは何点で満足しましたか。所謂赤点にならなければ良いと云うレベルですか。それとも平均的なレベルですか。それとも少なくともクラスで一番ですか。 100点満点を確実にとれる人は、クラスはどうでも良いかも?全てのテストで、100点満点を獲得した人がもしあなたの周囲にいたとすると、おそらく周囲から称讃されていた事と思いますが、芸術の世界ではそれでも誉められる事はありません。芸術の世界では、100点満点はスタートラインなのです。つまり、100点満点のテストで100点を取る事は当たり前の事なのです。ハガキサイズ.jpg 100点満点の人ばかり集めて、優劣を競うとしたら、どうすれば良いでしょう?学校では習わない内容の問題を出したり、余程専門的な訓練を受けないと体験できないはずの内容に関する問題を出さないと、差が出ないかも知れません。そうなってくると、出題者自身がそうした人達のことを理解できるレベルに到達している必要が出てきます。そうしたイベントは現実に沢山あります。過激なクイズ大会等が知られています。それでも番組として面白いと思われているレベルでは、まだ芸術と呼べる段階ではないとしたら、どうしますか?誰も成し得ない事を成す。前人未到の境地に達する。世界新記録を達成する。そこには到達した人にしか味わえない感覚が存在します。誰も見た事も体験した事がない味をどうやって説明しますか?根本的に無理です。でも、世界の頂点に立つと、メディアは報道するために達成した人に感想を聞いたりします。多くの人が同じ目標を目指し、かなり近い状態に到達した経験があるイベントなら、世界の頂点に到達した人の話も理解できるかも知れませんが、殆どの人が未体験の事で、世界一になっても注目度は低いですね。

 音楽全般の一般的なレベルの話ならば、『●●コンクールで1位になった』というだけで、『凄いですね』と誉められて、ハイおしまい。ですが?『それで生活できるの?』と聞かれると、・・・?っっっとっと。止めましょう。 この、世界的レベルで、高い評価を受けた人が複数人集まってアンサンブル演奏を行い、継続的に演奏活動を続けたグループは幾つか歴史にその名を刻んでいますが、数えるほどしかありません。その数えるほどしかない希有の存在のアンサンブルグループのメンバーに、何が決め手かを訊ねると、呼吸であるとの答が返ってきます。どんな呼吸なのかと訊ねると、みな答に窮します。窮した結果『阿吽の呼吸・・・ですね?』と。 内心は、『そこまで到達していない人に、理解できる訳がないことを、何故聞くんだ』という憤りを抑えている様子が手に取るように感じられますが、無知で無教養なレポーター達は、平気で猛獣や恐竜の檻の中へでも入っていきます。『安全なんだよ』の一言で。猛獣や恐竜との会話を試みます。勿論、そうした無謀な人達がいなければ、一般庶民と歴史に名を残す天才達との接点はない訳ですが・・・?

 しかし、メディアのレポーター達には腹が立ちます。インタビューする前に、少しはその世界の事を勉強してこい?!?!?!?!?。